NY百花繚乱 - 母への感謝

母は何時もいかなる時も私の味方でした。小学校3、4年の担任の先生にある日私はこう言われました”君の兄さんは良く出来るのに君はどうして兄さんのように出来ないのか”と。小さい頃から自尊心の強い私はその言葉に大いにキズついて家に泣いて帰りました。その時母はその先生をとんでもない先生だと言って先生を非難し、激しく泣き続けて明日から学校に行かないと嫌がる私を慰めてくれました。

二十歳を過ぎると私に次々と舞い込む見合い話しを母は断れないので全部引き受けてしまうのです。私は母がその都度洋服を買ってくれるので仕方無くそんな見合いに付き合ってました。まぁ、日本の男の意識はまるで後進国さながらだと、どの男を見ても私はそんな印象を持ちました。数ある中には見合いの後、すぐに母に断ってくれと伝えたら先方から先に断られて地団駄踏んだ悔しい経験もあります。和歌山の親戚の婆さんからの話しで母と一緒に列車に乗って行ったら、相手の男に父親が付いて来てその息子は何やらあらぬ方向を眺めていて明らかに普通では無いのです。受け答えも尋常ではなく、帰りの列車で母は”あれ、だいぶアタマいかれてるなぁ”と感想を述べてました。その時に買って貰った花柄のワンピースを何故か良く覚えてます。そうそうパンチパーマのお兄さんもいました、白いズボンにベルトが5cm下に通ってのだけ覚えてます。この男は母の友達が持って来た話しで母の方が記憶が確かでした。”ああ、あの枯れ木のカッタンか、あれは自転車やでドーベルマンの犬二匹飼ってた男や”と数ヶ月前にもその話しになりました。”何やその枯れ木のカッタンは”と私が尋ねたら母の子供時代は癩病患者の乞食が大勢いたそうです。その乞食たちを”カッタン”と呼んだと言うのです。それで枯れ木町に行くと”よ〜けカッタンおったわ”、普通ならそんな男を娘の縁談話しに持ってくる友達に抗議すればと思うのですが母は”あれ、オモロかったなぁ”で終わりです。大阪の生駒山系に近いとある町に住む家にも母と一緒に見合いに行きました。何でも息子はおかず屋(総菜屋)で朝4時半に起きて仕事すると言うのです。まだ夜星が瞬いている時間帯です。そんな話しは持ち込まれた時点で断れば良さそうにと思うのですが何故か母は全部受けるのです、たぶん仕事の内容まで聞いてなかったのでしょう。そうすると息子を取り巻いて彼の両親が座っていたのですが、父親が夜星の失点を挽回しようとするかのようにしきりに家にエレベーターを取り付けると強調するのです。エレベーターは弱った自分の足の為であり、健康な足を持つ私の足はエレベーターに吊られて夜星なんぞ仰ぎ見たくもありませんので断りました。中にはとんだ自惚れ男もいました”僕は結婚しても浮気しますよ”とのたまうのです。”勝手に何でもさらせー”と男の無神経さにはホント腹が立ちました。ハッキリ言ってロクな男はおりませんでした。”これが日本の現実だ、杉作よ日本の将来真っ暗だ”と心底そう思いました。母も母ですがそれに付き合った私も私です、自分を褒めてやりたいくらいです。

私が1978年3月10日のパキスタンエアーでイギリスに1年の予定で渡英しました。途中北京空港に降りたのですがファーストクラスに当時の公明党の竹入委員長が乗っていたとかで空港の外に出ると黒塗りの車がずらりと並んでました。そして空港はだだっ広いだけで毛沢東の肖像画が空港ビルに掲げられてました。その誰もいない空港に自転車の男がひとりのんびりと乗っていたのがシュールな映像として残っています。そしてビルの外に出るとそこには茫漠とした大地が広がり一本の道だけが遥か彼方地平線迄続いておりました。

飛行機は北京の後ラワルピンディ、カラチと経由します。カラチに到着したのは真夜中で空港ビルに税関検査の為に入ったら何とそこは人人人で溢れかえりまさに”アラビアンナイト”のような世界でした。人々は手に持てるだけの家財道具を持ちヤギやロバを連れていても不思議では無い光景です。週2便だけイギリスに渡る移民達の群れです。払い下げのジャンボ機は途中でトイレが故障するやら背もたれが調節不可だったりで、私は生きてヒースロー空港に到着したらもう儲けたようなもんだと観念しました。機体はヒースロー空港が霧で降下出来ないとアナウンスがあり、アイルランドのダブリンに向かいました。そこの空港で制服姿のおじさんの鼻が出来損ないの夏みかんのように大きくてクレーターがいっぱいあったのでその鼻だけがダブリンの思い出です。延々36時間の果てに無事ヒースロー空港に這うように辿り着いた私は生きて大地を踏めた奇跡に感謝する思いでいっぱいでした。

ロンドンでの生活は私には馴染みませんでした。以前にもパリから列車で来たことがありますがしかし生活するとなると話しは別です。私はすっかり体調を崩し、1978年7月7日の七夕の日にまだ新しい成田空港にゴムゾーリを履いて尾羽打ち枯らして日本に舞い戻ってきました。

父には内緒にして出かけましたが元より我が家では不文律のように家族と言えどもボーダーラインを超えることはありません。夏の暑い盛りで私は死んだように離れの部屋で横たわっておりました。そんなある日、母が珍しく側に来て”あんたは失敗したと思てるかも知らんけど人生に失敗なんて何も無いねんで”とひとことだけ言って部屋を出て行きました。

 母は私の身の回りにどんなことがあろうと何時も私の味方です。例えそれが周りから非難されるようなことであろうと自分の娘を信じているという姿勢です。私は自分の母だけは超えることが出来ないと悔しいですが認めざるを得ません。40年以上俳句を作っていたのでその博学振りには脱帽します。また株の売買を40年以上やっていたので世界経済の動向には大変敏感で、これも脱帽です。そしてこれまた詩吟で鍛え抜いた声にはハリがあり、電話から伝わる声は雑音をモノともしません。あの母に比べたら私なんぞ遥かに小者です。百迄頑張って生きる、と豪語してますので、まぁ最後の親孝行の真似事でもしようかと思っておりますが、あの毒気に当てられたらこっちが先にくたばるかもしれません。あ〜、モンスターマザー恐るべし!