NY百花繚乱 - 地動説

私が育ったのは大阪市内でしたが江戸時代ならばさしずめ南河内郡に属する市内と言えどのぞかな田園風景が広がる郊外でした。小学校の頃はランドセルを玄関の戸を開けて放り投げると即近所の悪ガキを手下にして遊び呆けておりました。まだ近所に”焼け跡”なるものが残っていた時代で我々ガキどもは焼け跡が格好の遊び場で私は手下どもから”ドテンバ”、”女次郎長”との異名で呼ばれておりました。それが中学校に上がると急に制服を着せられてそれもスカート丈が膝下迄あります。私にとってそれは大変ショックな出来事でした。今まで性の違いなど意識したことが無かった私にそれは”お前はオンナだ、オンナとしての生き方しか無いのだ”と言う死刑宣告にも似た宣言を突きつけられたほどの衝撃でした。私は完全に打ちのめされて自分の生きる道をどう模索していけば良いのか分からず毎日毎日飽きもせず大学ノートに延々と自分の思いのタケを書き綴る日々が何年も何年も続きました。思春期は父親への反抗と自分を取り巻くありとあらゆるものへの内なる闘争の日々でした。あの頃に強烈なる自我が芽生えたのだと今にしてそう思えます。とにかく私は地動説でただ突き進むだけで地平線の果て迄地動説、己れを中心にして太陽が世界が回り続けているのです。その果てに孤独死、野垂れ死があろうとそれは当然の帰結であって私にとってコペ転の発想は皆無なんです。

 1972年私は会社を休み1ヶ月かけてヨーロッパをひとり旅しました。途中ミュンヘンに立ち寄ったところ偶然日本の男子バレーボールのチケットが手に入り準決勝と決勝をこの目で見たのです。金メダルを取った瞬間、それは言葉に言い表せないほど激しくPatriotismに掻き立てられ, まさに旅のハイライトとなりました。その後スイスのユングフラウヨッホの山頂ホテルで泊まったり、スイスからイタリア回りでマルセーユの港町で途中下車し、そこからバルセロナに行きました。当時のバルセロナは排気ガスで空気がとても悪かったのを覚えております。ピカソミュージアムに行ったのですが彼の作品が額縁無しでそのまま無造作に壁に掛けられてました。バルセロナから夜行列車に乗り延々26時間揺られてアルハンブラ宮殿のあるグラナダへ。日本人が珍しいのか土地の人からジロジロと見られた時代です。そこから一直線にマドリッドへ北上す。当時はフランコ政権下で白い制服を着たポリスが銃を肩に掛けて街に立っており人を撃ち殺す権限が与えられていると聞きました。

マドリッドのホテルで泊まった時のこんなエピソードがあります。その夜ホテルで私は旅で知り合った日本人の同年齢かと思われる男性と私の部屋で楽しくお互いの旅の話しで話しが盛り上がっていたのです。どうして彼が私の部屋に居たかと言うと私の部屋のヴィデかトイレがどちらか忘れましたが問題が発生したのだけ覚えております。だから彼に助けを求めたのだと思います。さて快活に話しを続けていたら突然その男性が”今晩どうです、一緒に寝ませんか?”と来たんです。私はビックリ仰天して”いえ、結構です、結構です”を連発し彼をドア迄両手で祈るようにしてお引き取り願いました。彼がそんなことを考えていたなんて、、、。 あくまで地動説の私にとってそれは青天の霹靂でした。今思えば罪なことをしました。

f:id:NYhyakkaryoran:20170803233215j:plain

オランダにて、1972年