NY百花繚乱 - 差し伸べられた手

私が今日在るのは今まで本当に様々な人の出会いと真心のこもった多くの救いの手のお陰です。その中でも私をサグハーバーに導いて下さったたか子さんの死はとりわけ辛かったです。1983年の12月に彼女がこの世を去り、私は丁度その年のクリスマス前にブルーミングデールデパートに近いE60丁目にお店をオープンしました。その頃はお金も充分無かったので私は店の一角で寝泊まりするつもりでした。

私のお客さんでブリッジハンプトンに大きな家を持つトニーと言う人がいました。私好みの大変ハンサムな方で私は彼がお店に入って来ると何時もドキドキしておりました。あの頃彼はたぶん40代初めだったかと思われます。残念ながら彼にはすでに美人のガールフレンド、パメラがいました。トニーがある日どこに住むのかと私を気にかけてくれて質問しました。それで私は正直に住む所が無いと答えると、彼はひとつの提案を出しました。彼は不動産デベロッパーで 250 Mercer Street に彼が空きのアパートを幾つか所有していると言うのです。でもコンドミニアムとして売りに出される予定があり、それが決まったら出るという条件で住んでも良いと言うのです。家賃は私のアンティークと交換すると言うことでお互い合意しました。ドアマンが何人もいる大きなビルです。私の部屋はStudioのワンルームでしたが天井がとても高くロフト式のハシゴがついているので結構な広さがあります。私は週末はサグハーバーに出かけて店をオープンするのでマンハッタンのアパートに居るのはウィークディだけです。あの頃はブロードウェイの反対側に大きなタワーレコードがありました。アパートは直接ブロードウェイに面していないのですが消防車やポリースカーのサイレンの騒音が凄いのです。朝は夜明け前に大きなゴミ収集のトラックが轟音を響かせます。

私はそのアパートに1983年の暮れから1985の半ば迄住んでおりました。トニーは灯火器が好きなので江戸時代の銅製のろうそく立てなど幾つか持って行きましたが途中から彼はもう持って来なくていい、と言ったのでそれきりになりました。トニーはその後パメラと結婚をして可愛い娘のサブリナが生まれ、彼女がまだ幼い頃ブリッジハンプトンのサマーハウスに何度か行きました。もうサブリナも大きくなって結婚しているかもしれません。

トニーと会ったのは2007年12月初旬マイアミで開催された大掛かりなアートイヴェント”アートバーゼルマイアミ”の会場です。そのスケールはまさに度肝を抜くほどでとてもとても全部見て回れるものではありません。プライベートジェットが全米から250機ほど飛来したと新聞に書いてありましたのでその規模がおおよそ想像出来るかと思います。あんな大きなところでまさかトニーと偶然会うなんて驚きましたが、長く会っていなかったのでとても懐かしかったです。

ふと今思い出しました、トニーの誕生日は明日の6月14日です。もう彼との連絡方法は失くしてしまいましたが元気にしていたら幾つになるのでしょうか。共通の知り合いがいるので探し出して連絡と取ってみようかと思ってます。

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トニーのワイフのパメラと娘のサブリナ 

 

 

 

 

 

 

NY百花繚乱 - 半纏と法被

”半纏と法被”と言うタイトルで京都の紫紅社から本が出版されたのは1998年です。シンシアと私の共著でやっと出版にこぎつけることができました。

ある日シンシアから本を出したいので協力して欲しいと電話があったのは1991年頃だったかと思います。彼女はすでに17年ほどかけて日本の火消し半纏の資料をあちこちから収集していました。日本語で書かれた資料には翻訳してもらう費用だけでもかなりの出費だったと思われます。私も1981年に初めてSFで日本の民芸テキスタイル展を開いた時に明治期の刺し子の火消し半纏を3−4点展示してその折りコレクターに3点納めました(コレクターの図録に3点とも掲載されています)。

シンシアと私が火消し半纏をリサーチすることになりました。私はその頃NY近辺やマサチュセッツ州などに頻繁に出かけてはアメリカのアンティークを買い回り、東京や大阪で展示会を毎年開いておりました。あれは1995年の3月20日、私は大阪梅田の駅ビルで展示会のオープニングをしていたら、あの”地下鉄サリン事件”が起きたのです。シンシアと私はすでに東京のコレクターや研究者とアポを取っておりましたので21日に東京に向かって出かけました。まず、我々が泊まっていたホテルに長年江戸火消しを研究されてる方がわざわざ訪ねて下さり、江戸火消しに纏わる大変興味深い話しを沢山お聞きすることが出来ました。私たちはまだ開館して2年しか経っていない東京江戸博物館にも足を伸ばしそこでたくさんの興味深い資料も眺めることが出来ました。

もうすっかり日が暮れておりましたが最後の訪問先は長年古いものを集めてこられたコレクターを訪ねる予定で地下鉄に乗ったのですが、確か日比谷線だったと思うのですが車両には他に1人だけが向こうの端の方にいるだけです。それで車両がたくさんの犠牲者が出た駅に停まった時はさすがに私も背中が凍る思いがしました。

本は何とか出版することが出来ましたが、私としては決して満足出来るものではありませんでした。資料が沢山あればあるほど混乱してしまい、それらの資料を充分咀嚼しそして自分の言葉で上手く纏めると言う作業は想像以上に難しかったのです。結局苦し紛れのヤケクソでパッチワークのようにあっちこっちから言葉を引っ張ってきて何とか誤魔化してやり遂げたと言うのが真相です。1冊だけ本は持っていますが出版されてからまだ自分の日本語のテキスト内容は読んでません。とても恥ずかしくて読めないのです。

 

NY百花繚乱 - サイコの世界

2013年の3月から2014年の6月迄私はサグハーバーのヴィレッジにある小さい一軒家を借りることにしました。ロバートが居る家に帰りたくなかったので借りることにしたのです。おりしもゼルダと言う婆さんが借り手をずっと探していたので彼女の家を借りることにしました。彼女は私の店にたまに来るぐらいでしたが日本のモノがたいへん好きなようです。時に日本人の友達を伴ってくることもありました。彼女が週末にヤードセールをしていた時にカーディガンとか小物をいろいろ買ったこともあります。そして何がきっかけだったか思い出せないのですが彼女のSOHOのアパートに何回か泊まらせて貰ったこともあります。私はお金を払うと申し出たのですが彼女は受け取りませんでした。彼女はロシアンジューィッシュで、NYには結構ロシアンジューの人がいます。きちんとした教育を受け教養も充分ありそうな方に見えました。私はその年の4月初旬にNYに戻る予定だったので彼女の家は4月から借りたい旨メールしました。でも彼女の返事は3月1日からでないとダメだと言うのです。それで私はやむなく条件を受け入れてデポジットと最初のレントの二ヶ月分の支払いを近くに住む友人のKさんにチェックを預けていたのでその友人に頼んでcheckを届けて貰います、と返事すれば彼女からノーと言ってきました。チェックを日本から送れ、言うのです。それで送ったところ一週間経っても届かないと大騒ぎです。結局10日ほどで届いたそうですが、今思い出してみると、それ以前から予兆はあったのですが私が気付かなかったのです。

それは2012年の9月初めのレイバーズデイに彼女がヤードセールをすると言うので私も自分の売りたいものを持って行って彼女のバックヤードで一緒にやることになりました。何事にも超几帳面な婆さんなので重たいモノを物置小屋から出したり入れたりするのは私の役目です。それで一応品物を出したのはいいのですが、婆さんが私にピローケース2枚のうち1枚を彼女が何か他のモノにしようとしたのか横の縫い目が全部解けいるのを私に縫って欲しいと言って年代物の素晴らしいシンガーのポータブルミシンを出してきたのです。聞けば婆さんが学生の頃に親から買って貰ったと言うのですから60年以上の年代ものです。しかし、ミシンなど使い慣れていれば問題ありませんが使ったことが無いミシンを急に使えと言われてもどうしようもありません。そしたら婆さんは説明書を読め、と言うのです。日本語ならともかく小さい字でしかも英語です。辞書引きながら読んだら日が暮れてしまいます。私は悪戦苦闘して2時間もかけてやっとピローケースの横を何とか縫いました。すると婆さんはそのピローケース二枚を畳んでリボンを掛けプライスを3ドルから5ドルに書き換えました。私の労働対価なる2時間はたった2ドルです。しかもこのピローケースは売れずに最後まで残ってました。

この話しを後日シンシアと彼女のハズバンドのアーサーにしたら彼からこう言われました”3ドルで買っとけば縫わずに済んだのに”って。とにかく彼女の性格を物語る前兆は後で考えれば幾つか思い当たります。

婆さんが南仏のバケーションから帰って来てから婆さんの軌道を逸した行動が段々とエスカレートしてきたのです。私がうっかりと使った彼女のハサミが所定の引き出しに入ってなかったとか書類が他の引き出しに入ってたと言ってはヒステリー状態になりだしたのです。挙句に私が借りていた倉庫から持って来た段ボール箱が家の中に置いてあると言って激しく文句を言いだす始末で、それを境に1日に長いメールが5通も彼女から届くようになりました。婆さんは82歳で娘から貰った古いアイフォンを両手で操作するのです(私が聞いて確認)。

ポストオフィスに行けば内容証明でメールと同じ内容の手紙が届くわ、12月8日の夜私がウェストハンプトンの陶芸家ご夫妻を訪ねて雨が吹き荒れる中やっと帰ったら何と正面玄関と勝手口の両方のドアに婆さんからの手紙がテープで貼られいるのです。そして翌日ポストオフィスに行ったらまた婆さんからの内容証明の手紙が届いているのです。私はもう這々の態で翌日12月9日に婆さんの家を出ました。とにかく理解不能の完全にヒッチコックの世界でした。

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 借りていた家 2013年

 

NY百花繚乱 - 作家 Thomas Harris

ハリスさんのサマーハウスは私とロバートが6年間暮らしてていた小さなアパートから歩いて5分ぐらいの距離にありました。サグハーバーは昔からアーティストと物書きが多く住む街でハリスさんの他有名な劇作家の人も何人か私のお客さんにいました。彼の原作映画で日本でも大ヒットした”羊飼いの沈黙”はジョディー、フォスターとアンソニー、ホプキンス演じるミステリームービーでしたが会話の詳細は日本語の字幕が無いので分かりません。しかしストーリーの展開は理解出来ます。二人の名演技が光ってました。あの映画で殺人鬼バッファロービルをようやくクラリス演じるジョディ、フォスターが探し出すのですがその殺人鬼がゆっくりした動作で踊り出すシーンが何故か脳裏に焼き付いてます。ある日私の店にスコットと言う金髪で髪を長くした男が現れました。彼は私がバーバラの家に行くとその隣りのリッチーの家のカーペンターをしていたので何度か目にしています。何をしに来たのか、と思っていたらビーチに一緒に行こうと言うのです。このスコットと言う男のちょっとスローな動きが私にはあのバッファロービルが踊りだしたシーンと重なってどうにもならないので断りました。皮を剥がされたらタマリません。

ハリスさんの初恋の相手は日本人の女の子だったそうです。ハリスさんの話す英語は南部訛りでまことにのどかで歌うように話されます。ある日ハリスさんがいつもの彼らしく無くちょっと困った様子で話しはじめました。彼のサマーハウスのちょうど向かいの土地に持ち主が家を建てると言うのです。その土地の持ち主の住んでる家を彼は見たと言うのです。そして”あんなuglyな家は今までの人生で見たこと無い、もし自分の家の向かいに同じような家が建ったら大変だ”とこうおっしゃるんです。それで後で他から聞いた話しですが当時としては破格の値段で弁護士を通じてハリスさんが買い取ったそうです。実はそのuglyな家と言うのは以前に私も行ったことのある日系ハワイ人のアーティストの家だったのです。そのアーティストの家に行く用事があって行ったところ彼女から土地を売った云々の話しを聞いて、私はなるほど彼がuglyな家と形容したのはこの家だったのかと合点がいきました。でもハリスさんが口に泡を飛ばしてuglyと強調したのが可笑しくて私は笑ってしまいました。ハリスさんは南部人の持つ独特の暖かいホスピタリティーを持ち合わせ、そして飛び切りチャーミングな紳士です。

 ハリスさんは寡作家です。私がいちばん好きな彼の作品は彼の初期の”Black Sunday"です。彼が長い沈黙を破ってやっとファン待望の作品を仕上げました。私は作品の主人公の名前をどうするかで、いろいろあれでもない、これでもないと相談ののりました。小説の中でパリの古道具屋が出てくるシーンだったか、ハリスさんが”いらっしゃいまし〜”と日本語で挨拶する下りにはそれは女性言葉で男性が使うのは不自然だとアドバイスしました。そして本が発売される前のことですがハリスさんはこのところずっと毎日イーストハンプトンに近い町に録音の吹き込みに行っている、と言うのです。私は何故彼が録音しないといけないのかその意図が理解出来ない為、尚も食い下がりました。そうすると横にいた奥さんがひと声Make Moneyと言われてやっと納得しました。ハリスさんは出版される前に新しい本を私の店に持って来てくれました。いちばん最後のAknowledgementsのページに何と私の名前が出ているではありませんか。日本の出版社ではこの名前は誰だ、マイナーなジャズ歌手と同じ名前なので混同されたそうです。

しかし久々に発表したハリスさんの新作"Hannibal Rising"は残念ながらニューヨークタイムズの書評欄に酷評されて売れ行きも散々だったようです。私なんかに相談したからかもしれません。

 

f:id:NYhyakkaryoran:20170717234501j:plain蔦が生い茂っている二階の小さなアパートに6年住んでました。右手の家の一軒右隣りには日本でもファンが多いポール、デービスさんの家で、テレビの”愉快な仲間”のイラストは彼の作品です。ちなみに彼の友人の横尾忠則氏が彼を訪ねてこられたことがあり、その時ついでに私の店に入って来られました。氏は大真面目で”お化けが出るんです”とおっしゃってました。ハリスさんの家はこのストリートをまっすぐ行き左手に曲がったところにあります。

f:id:NYhyakkaryoran:20170717235348j:plainBilly Joel氏の数ある家のひとつ、中には彼のオートバイのコレクションが収蔵されていて、前が海なので彼の船も繋がれてます。この左側が我々が住んでいたストリートなので Joel氏ともDavis氏ともHarris氏ともご近所でした。

 

NY百花繚乱 - NY地下鉄事情

 

マンハッタンの30丁目のアパートに住んでいる時は地下鉄を利用するのにさほど不自由は感じませんでした。33丁目と28丁目パークアヴェニューに地下鉄の駅があり、グラセンまで徒歩で10分余りの便利さでした。ところがラッシュアワーの時間帯になると主要駅で停まるエキスプレスとローカルのホームが突然入れ替わってローカルに乗った筈がエキスプレスになっていたりします。アナウンスしていると思うのですがこれがなかなか聞き取れないのです。それとうっかり自分のミスでホームを間違えてエキスプレスに乗ってしまい目的の駅を通り過ごすこともしばしばです。それで反対側のホームに移ろうと思ってホームに出るとこれがホームが片側だけなのでいったん外に出て切符を買い直すかあるいは同じ方向の電車に再度乗って反対側に行ける駅まで行くかです。私はこの種の失敗は度々経験しているので急がない時は次の電車に乗り反対側の駅迄行くことにしてます。

80年代の地下鉄は本当に汚かったです。もう有名になっていたNYの落書きだらけの地下鉄は誠に迫力ありました。アートが走っている感じでした。日本の川崎重工だったか90年代半ば頃から段々きれいな車両が増えていきました。最初落書きの無い車両を見た時はちょっと感動しました。86年に友人のシンシアとカナダのトロントで開催されたAmerican Weaver’s Comferenceにベンダーとして出店した時はトロントの街の美しさに驚きました。それで NYに戻ってきたらまるで街がゴミ溜めみたいな気がしたほどです。地下鉄の中では今も昔も物乞いがしばしばやってきます。今は昔ほどひんぱんではありませんが、音楽が耐えられ無いほどうるさい時は私は他の車両に逃げ込みます。もう亡くなった大家のマーティンによるとNYの地下鉄は世界で一番古く開設当時は紳士淑女が正装姿で乗り込んだそうです。

私がブルックリンに移ってまず驚いたのがサブウェイの複雑さです。マンハッタンの中にいる時は想像もしなかったのですがマンハッタンから数駅離れてクィーンズやブルックリンに行くと何本も路線が複雑に交差していたりします。路線の数だけでも4、5、R、2、3、B、D、F、J、M、Z ブルックリンだけでもこれだけあります。

昨年リンカーンセンターで観世流の能楽公演があり私は全チケットを購入していたのですが3つの演目の前半を逃しました。時間に充分余裕を取って行ったのですが何とHigh Streetの地下鉄の駅が閉まっているんです。週末は小さな駅が閉まるなんて想像もしなかったので、大汗を掻きながら他の駅を探して行きましたが途中乗り換えがあったりして、すっかり遅れて前半を見逃してしまいました。

昨日の土曜日も用心してしっかり電車の路線A(そう、あの”A Trainで行こう、デュークエリントン)とホームを確認して乗りました。ところが到着する駅の様子が違うのです。W4なんて止まらない筈なのに止まるんです。乗り換える為に降りて再度確認しましたが電車の表示はやはりAとなってます。ところが実際にはF路線を走っているんです。週末は工事中などでしばしばこのように変更になります。途中で電車が故障して全員が降ろされることもままあります。

先月もホームに行ったら誰もいません、不審に思って作業員を見つけて聞いたら他の路線で一旦アップタウンのW 4へ行きそこで乗り換えて云々と指示を受けました。若い人はスマホで即最速経由を見つけるのでしょうが、私は何時もバッグの中から折りたたんだ大きな路線図を広げていちいち確認してます。頻繁に使用するのでもう折り目が破れてきてます。ひとつだけ利点を挙げるならばどこまで乗っても均一料金です。

それでひとつ思い出したことがあります。ロバートが日本に来た時に大阪のJRとか地下鉄に乗ったのですが、えらく座席シートに感心するのです。どうしてかと私が聞いたのです。そしたらNYでふかふかのベルベットのような座席にしたら一発でナイフで切り裂かれると言うんです。それを聞いて驚きましたが、そう言えばNYの地下鉄のシートは全部ハードプラスチックになってます。電車の中でも平気でモノを食べる人がいるのでやはり布地のシートはニューヨーカーには不向きです。硬い硬いプラスティックの座席が彼らには似合います。

f:id:NYhyakkaryoran:20170623215742j:plainサブウェイマナーへの注意事項

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プラットホームの広告

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残念、ハサミが無い

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共存共栄、ちなみに左側は首にヘビ巻いてます

NY百花繚乱 - 付和雷同と烏合の衆

 

私は昔から群れることが嫌いで級友同士が固まって何かすることは大の苦手でした。”とにかく十把一絡げにしないでおくれよ”この精神ひと筋でひたすら邁進してきました。思想や主義主張、宗教などに属するのは己れ自身を持たない烏合の衆としか思えないのです。仲間で固まって慰め合うとか、喜び合う、絶対ダメなんです。だからフェースブックで繋がるなんてありえない、繋がりたくないんです。日本人が好きな国民的言葉が全国津々浦々で見られます、安らぎ、絆、ふれあい、おもてなし、とまだまだありますが今のところ出てくるのはこれだけですが、どうして他と繋がっていたいのか私には分かりません。みんなでもたれ合って生きてゆけば安心なんでしょうか。

とにかくジメジメした訳のわからん情緒と言うオブラートで包み込むのが大層好きな国民だと思います。そしてその言葉を口に出すとみんながまるで魔法にかかったかのように集団催眠にかかってその気になってしまうのが恐ろしい。私はビートルズ世代ですが周りで皆がわいわい騒ぐと冷ややかにそんな連中を肩越しに一瞥するだけでした。”群れるヤツはアホや”と言う確固たる信念にも似た偏見が私にはあるのです。誰にも邪魔されない私だけの時間は私にとって大変貴重な至福の時です。

”願わくは 花の下にて 春死なん きさらぎの 望月のころ” そんな西行法師のような贅沢は望んでおりません。

”散りぬべき時 知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人は人なれ” そんな最後を迎えたいと節に願っているのですが......。

 

 

NY百花繚乱 - 自意識と自己顕示欲

 

思春期を迎える13歳ぐらいから私は自己との格闘で毎日毎日飽くことなく大学ノートに思いのタケを書きなぐっておりました。自分を守る為自分の周りに壁を築く作業に没頭してました。19歳の頃にデートしていた小学校の頃のクラスメートに最近会って聞いたらやはり”手出しは出来ない”と思ったそうです。高校生の時はソフトボール部やESS(英研)、テニス部も入りましたが元より私には協調性が無いので団体で何かすると言うのは不向きなのです。こちらに来てゴルフセットも購入しましたが打ちっ放しを数回行って諦めました。

若い頃はもう自意識が服を着て歩いてるようなもので突っ張って歩いてました。162cmと身長は高い方だったので当時流行っていた12cmぐらいの高さのヒールを履くと満員電車の中で私のアタマひとつ分が他の乗客より高くなるのです。そうすると後ろのオッサンの息がハ〜ハ〜とちょうど私の首に当たるので思いっきり背伸びしておりました。当時は装苑と言う服飾専門雑誌を取り寄せていたので母の知り合いが良く私の好みの服を作ってくれてました。ミニは流行れば早々とミニスカートをはき、ミディが流行れば颯爽とミディコートを羽織っておりました。

そんな私は会社の男性社員から必ず”遊んでいる女”として見られてました。”フン、それがどうした”、とばかり私は精一杯突っ張って自意識と自己顕示欲の塊で骨董の世界に入るまで頑なな女でした(今でもそうですが)。

私が1974年に初めて西海岸に旅行した時、私はSFのホテルシェラトンの前の通りでデジャブ〜の感覚を覚えました。以前に私はここに住んでいたような感覚です。でもよ〜く考えれば我々の子供の頃はアメリカのテレビ映画を浴びながら育ったのでそんな感覚を覚えるのは不思議でも何でも無いのです。1982年にNYに渡った時は最初は辛かったですが、私を私個人として真っ直ぐ有りのまま受け入れてくれるアメリカ人の人たちに涙が出るほど嬉しかったのです。もう突っ張らなくてもいいんだ、武装解除して壁を巡らせることなんかしなくていいんだと肩の力がす〜と抜ける思いでした。